篠束神社の社叢東側には矢場(やば)の跡があり、昭和30年代まで春の祭礼に「お祭り弓」と言われる奉射的神事が行われていた跡があります。以下は「氏神様とまつり」(愛知県神社庁豊川支部旧豊川市の五十九社)からの引用説明になります。
この地域では例祭の時、境内で弓を射る姿を見ることがあります。これは奉射的神事でお祭り弓とも呼ばれています。
お祭り弓とは、神社を中心とするその村落共同体の五穀豊穣、村中安全、無病息災を願う祭礼に際し金的を射止めることにより、その厄難を取り除くことにあります。
直径一寸八分の金的の裏には「鬼」という文字が刻まれ、悪霊とか災いを象徴的にあらわしています。金色をしているためにお金を連想しますが実際には鬼の化身なのです。
東三河の神社には多くの矢場とその痕跡が見られます。その中で現在も奉射的神事(金的神事)が行われている矢場は七か所ほどです。
かつて矢場を備えた神社は数十枚あり、この数は江戸時代当時の町の規模からすると多いものと思われます。
これは、戦国時代に徳川家康(蔵人元康)に百姓、町人が弓を引くことを許された三河ならではのものです。
永禄3年、(1560)に桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討ち取られた直後に徳川家康が蔵人元康の名で中山庄の天野与惣と鈴木右門三に「弓の事」という免許状を出しています。
古くからこの地域では「三河の張り弓」(弓の弦を張ったままいつでも引くことのできる状態で持ち歩くことが許可された地方)、「遠州の裸弓」(弦を張ることはできないが弓を裸のまま持ち歩くことが許可された地方、「尾張の袋弓」(袋に入れてなら弓を持ち歩くことができる)と言われ、徳川家康の時代からこの地方では百姓が弓を引くことや、張った弓を持ち歩くことが許された領地として知られています。
お祭り弓は勧進的(まと)という形で執り行われました。勧進元(興行主)は公文と呼ばれ、苗字を許される様な庄屋や地主といった俸禄(給与)を必要としない者が取り仕切る形で行われました。
矢場は昔ながらの形を保っており、例えば安土(的を掛ける盛り土)の形を見てみると古文書に登場する形式を基本として、大安土の前に小安土を設けています。
現在の弓道場のように射手が同時に射位に立ち、それぞれが持ち的に向けて引くのではなく順番に一人ずつ引いていくようになっています。
また、ほとんどの矢場には囲炉裏があり、お祭り弓において公文は馳走で参加した弓士をもてなし、さまざまな地域の弓士たちが囲炉裏を囲んで情報交換や文化交流の場となっていました。また、矢場における射会は庄屋や名主などによる村の行政会議の場でもあったそうです。
(以上、引用終わり)
お祭り弓で見事に金的を射抜いた弓士には社殿にその扁額(奉納額)を掲げることが許され末代までその家の誉れとされました。篠束神社には往時の扁額が 10数枚保存されております。