蘇民神社


悪疫退散の神

 薬も医療も発達していなかった100年ほど前までは今まで元気だった村人たちが疫病で突然バタバタと倒れ原因不明な病はもののけ、怨霊、悪鬼によるものとされ怖れられていました。多くの子供や大人たちが亡くなり残された家族はただただ神様に祈ることと感謝することしかできませんでした。


 蘇民将来を祭神に祀る神社はめずらしく、三河にはここの蘇民神社しかありません。

 

 蘇民将来(兄)と巨旦将来(弟)の説話は神社の由緒にある通りですが、蘇民神社の祭礼が行われる1月11日前の日曜日に篠束では羽織袴や裃(かみしも)姿に威儀を正した神社役員が神像を木版刷りした護符(お札)を各家庭を廻り配布する風習が今でも行われています。これを「神様のお渡り」といって家族が沿道に出てお迎えをしお札を受けて神棚に供えたり玄関に貼ったりしてお祀りをします。また蘇民神社の祭礼に合わせて地域の厄年に当たる人々は厄祭りとして午前中に厄除けのご祈祷を受け、夕方には「神様のお渡り」の到着を待って神社境内で餅投げを行います。近郷から蘇民神社の神像の護符(お札)を受けに来る方もお見えになります。

 また、蘇民神社はいつの時代から祀られ始められたのかは分かりませんが、安政5年(1858年)までは本殿の中に祀られていました。その年に本殿の造営が行われたため、本殿の東隣りに旧本殿を移してお祀りするようになりました。その後大正3年10月、現在の拝殿が再建されました。

平安時代の終わりの頃から長らく大国主命に加えて「須佐之男命=牛頭天皇」をお祀りし、社号も「牛頭天王社」(ごずてんのうしゃ)と名乗っていたことが分かります。